大きな仕事に入ってしまい定期更新がかないません。
しばらくお休みします。
申し訳ない。
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共産主義思想の本質はその国際組織の名である『インターナショナル』に示されている通り、国境や民族の否定にある。したがって、たとえばある国の国民が自らのみの国家体制として共産主義を選んだとしても、その体制選択が国境で閉じられることは原理的にありえない。革命の輸出は共産主義の原理であり原則であり、そしてトロツキーはこの原理原則に忠実であったがゆえに、一国社会主義へと修正されたソ連のスターリン主義と対立することになったのだった。もちろんスターリン主義も共産主義に固執する以上はロシア国境の内部に留まることは出来ず、結局は東欧で、極東で、革命の輸出に励むことになる。
毛沢東の革命も同様で、それは国境で閉じてはいない。革命を輸出し続けることこそが毛沢東の革命に限らず共産主義革命の存続条件なのである。ただ毛沢東による革命の輸出は、それがアメリカとの最終戦争への布石とされている点にその特異性がある。対米戦争は毛沢東にとって不可避の過程であり、その勝利は最終的な革命成就の条件でもあった。
ところが朝鮮戦争で実際に戦火を交えてみるやアメリカの強さは圧倒的で、直接的な対米勝利という路線は修正を余儀なくされてしまう。こうして毛沢東とその後継者たちは一方では直接的な対米戦争に備えて核兵器を開発しつつ、もう一方ではヴェトナムで代理戦争を試み、これが存外うまくいくと悟るや、今度はもっと巧妙に傀儡を操ってアジア各地で親米政権を転覆させることになる。もちろん革命輸出の最終的な目的が対米最終戦争の勝利である以上、アメリカに直接、革命を輸出できればいちばん良いのだが、残念ながら毛沢東の革命は銃口からの暴力革命であり、銃口で打ち倒すにはアメリカはあまりにも強大すぎた。この時代の中国にとってアメリカは間接的に対峙する究極的最終的な敵ではあっても、革命の直接的な輸出先ではなかったのである。
だが、もし、銃口に依らぬ革命の輸出が可能だとしたら、アメリカを革命輸出の対象から外す理由は消えてしまうのではないか。
実際、毛沢東は民主主義について抽象的な知識しか持たなかったが、同じ世代の革命家でも鄧小平をはじめとするヨーロッパ留学組は民主主義の本質やその脆さについても深く理解していた。従って、銃口から出ぬ平和的な革命の輸出も、相手が移民を容認する民主主義国家であれば極めて容易である事実に気づいていないはずがない。たとえばスポット的に狙いを定めた地域に移民を大量に輸出し集票マシンを組織して議会を量的に牛耳る一方、優れた人材をマスコミやシンクタンクなどに送り込むことで相手国の質的な意志決定を歪めていく、と。このような質と量を兼ね備えた平和的侵略は多民族国家の民主主義国では阻止するのは至難の業であり、気づいたときには手遅れとなっている……これは共産主義的な革命の輸出というよりは西洋人が異国を平和的に侵略するときの通常のやり口であって、毛沢東はともかく、ヨーロッパ留学組が知らなかったはずがない……だから改革開放を恐れる必要はない、相手をこちらに引き込み、こちらも相手のもとに出て行って飲み込んでしまえばいいのだ、なにしろ人口はこちらの方が圧倒的に多い……
毛沢東の冒険主義よりも鄧小平の改革開放路線の方がむしろ危険だったのかもしれぬ。
オバマ・クリントンの動きを見ていてそう思う。
書きたいことは山ほどあるんですが、仕事には勝てません。
申し訳ない。
『おくりびと』は私も名作だと思うし、これが〈死〉を描いた佳作だということに異論はないが、ただ、昨日(26日)のNHK『クローズアップ現代』のような議論には同調できない。曰わく、現代日本は〈死〉と向き合ってこなかった、それが今回云々……。それでは『黄泉がえり』はどうなのか、『セカチュー』はどうなのか、最近流行のいわゆる〈ケータイ小説〉ものはどうなのか、すべて〈死〉と真正面から向かい合ったものばかりではないか。日本の物語はどんな娯楽作品であっても、必ず直接間接に〈死〉をテーマとし、〈死〉と向かい合っているのである。
だが『おくりびと』の描く〈死〉はこれらの娯楽作品の〈死〉とは異なっている。それは、『クローズアップ現代』がもう一つの具体例として紹介した直木賞受賞作である『悼む人』描く〈死〉と同様、〈他人の死〉なのである。即ち通常の娯楽作品が身近な人々の〈死〉によって日常とは違う異世界を開いてみせるのに対し、『おくりびと』は〈他人の死〉と向き合う日常を淡々と描く。もちろん『おくりびと』も日本の物語である以上、最終的には身近な〈死〉によって過去の想い出という異世界が開き、日常が再生されるのだが、そこに至る過程で、これを私は日本の物語に特有の〈解脱に至る修行〉と呼ぶのだが(拙著『マンガ・特撮ヒーローの倫理学』参照)主人公は数多くの〈他人の死〉を通過する。この〈解脱に至る修行〉が〈他人の死〉であることが、『おくりびと』を他の娯楽作と分かつ分岐点なのである。
日曜でもないのに早起きしたので。
『日曜評論』号外と言うことで。
「かんぽの宿」の一括売却が見送りになるらしい。
鳩山総務相がなにやらわめいていたのが私の故郷日田の、見覚えのあるかんぽの宿の前だったものだから、あの品のない口調が奇妙に頭の片隅に引っかかってしまい、それで、この問題でのテレビでの論評など聴くともなく聞いていた。
それにしても、いつもながら、報道は浅い。
たとえば『読売』の電子版での記事。
買えば良かった!かんぽの宿、1万円で売却
旧日本郵政公社が民営化前の2006年から07年にかけて、自治体や民間などに売却した保養宿泊施設「かんぽの宿」15か所の売却額が、全体の建設費約311億円に対して、計約13億円だったことが28日、日本郵政が民主党に提出した資料でわかった。
このうち鳥取県岩美町、鹿児島県指宿市のかんぽの宿は、それぞれわずか1万円で売られていた。
日本郵政がオリックスに一括譲渡する予定の70施設を巡っては、譲渡額の約109億円に対して、実際の土地代は約300億円、建設費は約2100億円だったことも、同日判明した。
鳩山総務相は記者団に対して、「土地だけを売るような値段だ」と批判しており、民営化前の価格設定方法も含めて論議を呼びそうだ。
(2009年1月28日22時15分
だいたい、売ったのは土地建物だけか?
当たり前の話だが、法人を経営していれば様々な債権債務関係が生じるわけで、それがかんぽの宿の場合、債務超過になって赤字を垂れ流すようになり、仕方なく、経営そのものの売却という話になったのではなかったか。つまり売られたのは赤字経営そのものであって、土地建物は法人の資産の一部でしかない。
たとえば100億円の負債を抱えた法人が実勢価格1億円の土地建物を持っていたとする。で、この法人の経営譲渡に絡み、土地建物のみが1万円で譲渡されていたとする。このようなケースは、常識でいって、100億円の負債の前では1億円の土地など名義書換以上の何の意味もなかったと考えるべきだろう。実際、かんぽの宿は膨大な赤字ごとオリックスに譲渡されるはずだったのである。それが今さら土地建物の移転価格だけを見て「土地だけを売るような値段だ」……いったいこれが総務省トップの発言だろうか。
『読売』も「買えば良かった!」と「!」マーク付きで言うくらいなら、まだ遅くない、どこかのかんぽの宿でも負債ごと買ってみたらいかが?
会社法を少しでもかじった者ならだれでも、1月21日の『日経新聞』のコラム「大機小機」を読んでハタと膝を打ったに違いない(と思う)。
「会社法に労働概念がなく、労働法に企業概念のない日本の法制の基本的考え方が、派遣労働者の犠牲を安易に肯定する発想の基礎にある。厳しい生活を強いられる労働者よりも株主の方が大事という発想が正しいのかどうなのか、しかと考えるべきであろう」
確かに会社法は株主と会社債権者と経営者との三つ巴の利害関係の調整を目的とした複雑怪奇な入れ籠の迷路であって、そこに「労働概念」を容れる場所はない。労働者保護など、せいぜい、会社債権者について書かれた部分を寄せ集めて類推適用すれば図れないことはない、と言った程度のものだろう。即ち会社法は徹頭徹尾「持てる者」のための法なのであり、私のような「持たざる者」にとっては別世界を律する摩訶不思議な呪文に過ぎない。『日経』のこのコラムを読み、改めて、会社法を学びながら感じていた違和感の正体に気づかされた。
で、気づいてみれば、逆に、このコラム氏の言う「労働概念」のオカシサも見えてくる。たとえばコラム氏は「特に欧米のように株主が個人である点にこだわる社会では、株主とは人間であり、消費者であり労働者である」として、欧米での「個人」を「労働概念」の基礎に置くのだが、しかし根本的な疑問を言えば、「個人」と「労働概念」はこの資本主義社会において相容れるものなのか。
たとえばある「個人」がその「個人」として尊重される「労働」など、資本主義社会では才能あふれた「個人」にのみ許された例外的な特権であり、実際には、才能のない抽象的な「個人」は「労働」の場面では入れ替え可能な単なる部品でしかない。そしてその入れ替え可能な部品が団結することで「労働」者となり、闘争の中で生存権を獲得したのが欧米の「労働概念」の起源である。
ひるがえって、日本ではそもそもギルド的な「個人」が近代的「労働」に抽象化されることはなく、ハタラキはその「個人」の職人的なワザとして入れ替え不能な「個人」のものとして認識される。その結果、「あの人」と「ワタシ」のハタラキが等価であるという「労働」の抽象化は排除され、結果、労働組合は団結の主観的基礎を欠いたまま形骸化し、普通の「個人」は部品のまま取り残されることになる。
たとえば派遣切りの場面でも、それは社会や会社のせいであると同時に、暗にその「個人」のハタラキの質にも問題があったからだとされ、テレビや新聞も切り捨てられた労働者「個人」の来歴をしつこいほどに報道する。確かに、あの人は正社員で派遣切りに遭わずこの人が遭ったとすれば、そこにはあの人とこの人との個人的なハタラキに差異があったのかも知れない。が、ただ、その差異が生じるに至った「個人」の来歴をいくら探っても社会的な救済策が見えてくることはない。ところが日本人が求めているのは「個人」がこの世界で失敗しないためのヒントであって、決して抽象的な法制度の話ではない。こうして報道は常に「個人」のハタラキにも焦点が合わされることになり、不況のたびに似たようなお話が語られ続けることになる。
ここで気づくのは、日本では労働者は「持たざる者」ではなく、ハタラキやワザを持った一種の「持てる者」として捉えられているということだ。つまり切り捨てられた労働者たちは、自らが持つハタラキやワザを適切に使えなかった、あるいは使えない状況に追い込まれた、失敗した「持てる者」とされ、慈善や保護の対象である「持たざる者」とは一線が画されているのである。日本人が失業者を眺める目つきの根底には、「持てる者」が適性に能力を使えていないことへのモッタイナイという思いがある。
日本人にとって「個人」としてのハタラキやワザが適切に使えていない状況ほど、社会的にそして主観的にモッタイナイことはない。そして、私はここに、会社法に「労働概念」がないと慨嘆する場所から一歩踏み出すヒントがあるのではないかと思っている。即ち、欧米的な「労働概念」ではなく、日本的な「個人」のハタラキとワザを基礎にした会社所有のあり方が模索されて良いのではないか、と。
by zabbit
『闇の子供たち』タチの悪い「…